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執筆者の写真S Mikaze

太宰治の故郷を探訪

 こんにちは、Mikaze です。

 今回は、青森県の旅の途中に是非とも訪れてみたかった場所、太宰治の生地へやってきました。なにせ、私は太宰治の密かなファンのひとりだったからです。

 といっても、彼の故郷については殆ど知りませんでした。

 太宰治の生まれ育った環境、家族、執筆の様子などを探訪する機会を得ることができ、とても嬉しいです。

 それでは、全貌は広くほんの少しですが、さっそく紹介していきましょう。


 

1. 津島家の豪邸「斜陽館」


                                   津島家の豪邸「斜陽館」


 津軽平野の中央あたりに、金木町(かなぎまち)という町がありました。現在は合併して五所川原市となっています。

 その地に遠目から見ても一目で分かる豪邸がそびえ立っています。これが、太宰治と彼の家族、津島家が暮らしていたお家です。

 この家は明治の大地主だった太宰治の父、津島源右衛門が建築した入母屋造りの建物で、明治40年6月に落成したそうです。日本三大美林のヒバを使い、階下11室278坪、2階8室106坪、付属建物や泉水を配した庭園などを合わせて宅地約680坪もあります。

 彼はこの家を『苦悩の年鑑』の中で、

「この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」

と書いています。

 そう言われるとそう見えてしまう豪邸。内部もまた非常に豪華な造りになっていました。




                                  斜陽館1階の座敷、仏の間


 私がまず驚いたのは、八方に広がり天井も高く、開放感のある部屋とそれらを仕切る段差です。部屋の右側には一面に窓があり、大きな庭を眺めることができます。

 受付の方にお願いすればこの建物の詳しい説明を聞かせて頂けるのですが、躓いてしまうような段差は身分の違いを示しているかの様だと仰っていました。

 農家の人が米を納めるためにこの家へ入り、部屋の手前に設けられた土間で米を預かります。その場所にも高い段差がありました。

 また、写真の部屋、奥の仏壇の部屋は特に敷居の高い部屋で、父と長男しか立ち入ることはできず、幼少期の太宰治がそこに足を踏み入れようとすると、周囲の人に袖を引っ張って戻されたりしたそうです。彼は、そんな厳しい家庭で育ち、此処を訪れる者の様子を間近で見れたからこそ、この家を好かなかったのかもしれません。



 太宰治が生前着用していた二重回しのマントが壁に掛かっていました。

 写真撮影可能とのことで、せっかくなので記念に撮影してもらいます。



 大きい。ぶかぶか過ぎてハリーポッターの制服みたいになってしまいました。

 魔法が使えそうです。




一通り1階の部屋を覗いてから2階への階段を上ると、これまたびっくりで洋風になっています。




 2階の和室「斜陽の間」の襖には斜陽の文字が書かれています。


 左下の小さい文字の上に書かれています。これは漢詩の一節で、明確に残された言葉はないのですが、太宰治の「斜陽」はここからとったのではないかと言われています。


 斜陽館は、他にも執筆用具、初版本、翻訳本、書籍などの他、津島家で使用していた調度品なども展示しています。

 太宰治の生まれた部屋も拝見することができました。彼は此処で育ち、この景色を眺めていたのかと思うと、とても感慨深い気持ちになりました。




. もうひとつの家「旧津島新座敷」


 斜陽館から東に5分程歩いた場所に、生家の離れ「新座敷」があります。

 ここは昭和20年、太宰治が疎開先として身を寄せた家です。戦後もこの離れに妻子と共に暮らし、『パンドラの匣』など23作品を執筆しています。

 私の好きな小説『人間失格』も此処で生み出された作品でした。



 ログハウスのような温かみのある造りが来訪者を出迎えてくれます。

 手前のランタンには太宰治のシルエットが浮かび上がり、ほんのり明かりを灯していました。

 ここから、案内人の解説を聞きながら奥に歩いていくことができます。

 斜陽館と変わらない内容も出てきますが、この離れにまつわるお話を多く聞かせて頂けるうえ、案内の方も熱のこもった解説をしてくださるので、とても分かりやすく理解が深まります。



 青春期の彼は新興地主の出身に悩んでいました。左翼運動への傾倒や度重なる不品行により長兄から義脱されたまま、主に東京で作家活動を続け、やがて生活に安定感が見られるようになった33歳の時、病床の母を見舞う機会を与えられ、妻子と帰郷。(昭和17年)

 その顛末を小説『帰去来』『故郷』に記しています。

 そして、その病床の母が横になっていた場所がこの部屋です。

 周囲からは金持ちのバカ息子だと言われ、家族の中でも居心地の悪さを感じていたさなか、母は「よく帰ってきた」と言い周囲の知り合いや親戚達にも暖かく出迎えられたそうです。太宰治は口を曲げて涙を堪えたといいます。本当にわだかまりのとれた、感動の再会だったのではないでしょうか。

 これを境に兄との確執は徐々に解け始め、小説『津軽』の取材旅行のために再び帰郷します。(昭和19年) しかし、翌年の本土襲撃で三鷹や疎開先の甲府市は被害を受け、やむなく妻子を連れて汽車に乗り、津軽の生家を頼ったのです。そこでやっと一息つくことができました。


 …そうして途中かなりの難儀をして、たっぷり4昼夜かかって、

  やっと津軽の生家に着いた。生家では皆、笑顔を以て迎えてくれた。

  私のお膳には、お酒もついた。

                        太宰治『庭』より



 彼が16歳の時、この場所で兄弟3人と姪2人と一緒に撮影された写真が残っています。写真には、今は無い長椅子やスチームストーブが写っています。

 父の急死により、この時は長兄の文治が主人となっていました。



 ここは太宰治が執筆をしていた部屋です。

 実際に彼がしていたような座り方で撮影してもらえました。片膝を立て、左手で煙管をつまみながら執筆していたようです。

 じっと集中できるような心地がしました。私も一筆何か書いてみようかな。




. 幼少期の遊び場『芦野公園』


                                太宰治銅像


 生前に太宰治がよく遊んでいた芦野公園は、芦野湖のほとりにある広大な公園で、景観も美しく春には桜が咲き乱れる場所です。

 そこには太宰治の銅像が建てられています。

 これは彼の文学功績を讃え、生誕百年を記念し、2009年に建立されたようです。



                               太宰治文学碑

 銅像の側には文学碑が建っています。

 太宰治が生前にもっとも好んで口にしたといわれる「ヴェルレーヌ(フランスの詩人)」の一節が刻まれていました。





まとめ:彼の跡は津軽の地に生き続ける



 いかがでしたか。


 今回は、私が彼の人間性に惹かれていたこともあって、つい沢山書いてしまいました。

 これは彼にゆかりのある一握りの場所で、他にも各所にあります。それでも、ここを訪れたことによって、私は彼がより人間味を増して感じられました。

 この地を周った後に彼の作品を読むと、また違ってみえるのではないかと思います。

 青森の津軽を訪れた際は、太宰治に興味がある人もない人も、人を魅了する文学の一端を生み出した彼の生き様を辿ってみてはいかがでしょうか。

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